昭和46年10月19日 朝の御理解



 御理解 第41節
 「信心は話しを聞くだけが能ではない。わが心からも練りだすがよい。」

 信心は話しを聞くだけが能ではない、信心は話しを聞いて詳しくなる、信心は詳しくなるだけではいけん、と言う訳ですね、話しを聞きますとやはり信心は言わば詳しくなる、信心が詳しくなるだけではつまらん、わが心からも練り出す、所謂おかげを練り出す、おかげの練り出せる信心、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと心に練ってみる、それだけではいけんそこからおかげが練りだされてこなければならん。
 そこでまず信心させて頂くなら、まずこれだけは間違いのないことは、時間を割り出さなければならん、どうあっても御賽銭を練り出さねばいけん、暇がなからなければ信心は出来ん、お金がなからなければ信心が出来んとまあ申します、確かにそうです、けれどもそれなら信心が段々わからせて頂いて、体験させて頂くことはやはりお参りする時間を練り出しておく、又御賽銭をちやんと練り出しておく。
 成程これは自分がお供えしよるとじゃないな、自分がお参りしよるとじゃないなと、わかって来る、そこんところを私は練り出すと言う。暇がなからにゃ信心が出来ん、お金がなからなければ信心は出来ん、確かにそうなんです、けれども自分では信心どもする様なゆとりのある時間はない、と思うておった。そげん御賽銭も続かんと思うておった、ところが実際信心させて頂いて、体験させて頂く事はどんなに、例えて言うと忙しいでもです、こちらが一年発起させて貰って。
 お日参りならお日参りをさせて貰おうと思うておると、神様はちやんとお参りの時間はいわゆる仕事に差し支えがない様に、おかげを下さるもんだなと言う事、しかもお供えもとてもあの人達の様に私だん続かんと、まあ始めの頃は思うておったかも知れん、信心のない人はそれを言うかも知れんけれども、それが続くから不思議である、皆さんもよう体験されるでしょう、明日はいよいよお初穂がないと思うておると、本気でお参りさせて頂くと言う事になるとね。
 もうこれは、どこの端からかいわゆる出て来る、いわゆる練り出されてくる、そして思はせて頂くことは、成程これは自分がそう言う気になっとれば、神様がお供えをさせて下さるんだなあと言う事が分り、お参りさせて下さるだなあと分る。そこのところをまず練り出させて頂いて、それを成程そうだと分らせて頂いて、私は話しを聞かなければいけない、このところの体験をしっかりふんまえて信心をなさらなければいけん、どうでも信心には時間が必要である、お金が必要である。
 けれどもその時間も神様がつくって下さり、そのお金も神様がどこからか用意して下さると言うなら、こんな楽なことはないでしょう。そしてそこからおかげが練り出されて来る、差し引き一年なら一年お参りさせて頂いてですね、さあ神様にかけた時間が言うならまあ何百時間と一時間づつ、例えば神様に使ったとしても、一か月で三十時間、一年では三百六十時間、合楽の方達の場合なんかは、御理解から御祈念からとても一時間位のことでは出来ませんよね。
 大した事です、それだけの事が練り出されると言う事を目のあたりに見たり感じたり、自分の心の上にです、それが不思議な事だなあとその気になりゃ、神様がお参りもさせて下さる、お供えもさせて下さる、そして一年なら一年締め括ってから、さあ一年間計算してみるとどれだけお供えしたか分らん、ならばそれだけ信心のなかった時の、それだけくぼみが出来ておるかと言うと、くぼみは出来ずに却っておかげを頂いておると言う事実を、いわばそう言う事実をふんまえての、信心であるここのところがですね。
 まず真心の土台になっておる程しの信心でないと今度はよい信心が生まれてこないと思う、初心忘るべからずと、何でも始めの頃を忘れてはならないとこう言うのである。例えば結婚を致しましてもいわゆる花嫁花婿と言われておった時の事を、忘れなかったらいつも初初しい、何とはなしに嬉しい有難いと言うか、いわゆる夫婦仲ようして行く事が出来ると言うのである、これは結婚だけの事ではない。
 すべての点でそうである、私ども本当に段々おかげを頂いて参りまして、先生先生と立てられる、段々お弟子さんが出来て来る様になりますと、もう先生だけではない、先生ではまぎらはしゅうなるから親先生と言うて下さる様になる、恐らくまたここで修業したお弟子さん達が教会を持ったり、親先生と呼ばれる様になると、もう今度は親先生でもいけんから大先生とか、おお先生とか言われる様になるだろう、その先生になり親先生になり、大先生にならして頂くと人間が段々本なこと親先生になってしまう。
 神様の様に取り扱うて頂く様になると、本当に神様になった様な気持ちがする、そう言う時にですね、はっと我に返るだけの信心がなされなければなりません、私も作日ある事で本当にはっとする様に、皆が親先生親先生と言っておられるけれども、それはまぎれがましいから親先生と言いよんなさるとだと、先生が沢山いるから、心から親先生じゃないのだと、と気付かせて頂いた、とたんにそこにあった問題が解決した、いわゆる初心を忘れておるのですね、所謂大坪さんといわれておった時代の事を忘れておる。
 成程先生になり切らなければならない、親先生になりきらなくちゃならない、吾か心が神に向かうのを信心と仰るから、神様を生神を目指して皆信心の稽古をさして頂いておりましても、それがついいつの間にか所謂尊大ぶった心と言うものが出来てくる、私どもが人間、これで良いと言う事は在りません、もうどれほど精進させて頂いても教祖様ではないですけども、これですんだと思いませんと言うのが、信心の姿勢でなからねばならんと思います、私ども自堕落しとる訳ではありません。
 やっぱりそれを目指しておりますから、日々の修業は怠りません、そういう修行を例えば続けさせて頂いておりましてもです、いつの間にか偉そうになっておると言う事、人が親先生親先生と言うて下さりゃもう本当に自分は親先生になったつもりでおる、それに親に向かって何と思うとるか、親先生をなんと心得とるかと、言う様な心がいつの間にか、わが心が神にむかって育って行きよるけれども、そういう心もやはり一緒に育ってゆきよる、まあそれも言うならば雑草と言うのでしょうね。
 良いものが育って行く、どうもこの頃伸びが悪いがと思いよったら、根本に雑草かいっぱい生えとったと言うのである、それが何かの機会に直面せんとそれが分らない、直面するところから、ああここにこういう草がいっぱい生えとる、だからと言う事に気が付かせて頂いて、所謂大坪さんと言われておった時代の信心にかえらせて貰う気になっらせて頂いたら、問題がもう一遍に解決する、ああ初心忘べからずと言うのはこう言う事かなと思うた、話しを聞くだけが能ではない。
 わが心からも練り出すが良い、まず信心によって練り出す事の第一は時間を練り出す事である、次ぎにはお供えをねり出す事である、お賽銭を練り出す事である、その練り出そうとするその心が神様が喜んで下さる、どうならしてと思う心が一心である、そこから生まれて来る時間であり、いわばお賽銭であるそれが真心である、だからそこからおかげがかならず練り出されて来る、時間がなからなければ信心が出来んと思うておりましたが、こう言う忙しい日々の中にでもお参りができる。
 一年間にすれば何百時間と言う事になる。とてもあんなに毎日お賽銭やら、お初穂やら皆しござるがとてもあげな真似は出来んと思うておったけれど、さあ実際は成程出来ない時もあるけれども、一生懸命その事を祈らせて貰い、願わせて頂きよるともうどこの端からか生まれて来る、もうこれは不思議で不思議でたまらん、私どもその体験がある、そげなところにお金がはいっとる筈のないところに、お金が入っとったり、そうして一年間なら一年間をしめくくって見てです。
 ようも何百時間と言う時間を神様の前に、信心の時間いわゆる神様に捧げた時間と言うものが、神様に捧げた時間言うものが、神様に捧げたお賽銭と言うものが莫大な事になっておる、その莫大なことが、家財産から減っておるかと言うと減って居ないというところに、不思議を感ずる、どげん考えたっちゃ不思議な事である、そこにそう言う素晴らしい事が信心させて頂いておると練り出されて来る。
 そう言う信心が練り出されてそれが信心の土台にならなければ、もう段々年をとったらお参りをせんでもよか、だんだん年を取って総代、幹部と言ってなったら、お供えをせんでよかちゅう事はなか、ますますそれは時間も沢山捧げられるし、お供えも沢山捧げられる事になって来る、しかもそれだけ自分の方にくぼみが出来るのではなくて、出来れば出来る程大きくなって行く、出来れば出来るほど家は豊かになり、いわゆる信心の時間と言うものがです。
 一時間よりも二時間、二時間よりも三時間ついやされる様に、なればなる程余裕の出来た生活が出来ると言、う体験が生みなされて来る、練り出されて来る、そう言う練り出しをまず元にしなければならない、まあ私は金光様の信心は、ここがまず練り出される事だ、そして今日私はそう言う信心、を一つの基本として、どう言うおかげが受けられる様になりましても、いわゆる初心忘るべからず、どう言う事に直面致しましても、今日私の体験から申しますと。
 私どもの、信心はじめであるところのまあ大坪さん、大坪さんと言われておった時代の事をです、思わせて頂いたら、その場でどんな問題でも解決する程しの、おかげが受けられる私どもがいつの間にか、信心の成長と同時に、雑草も生えて行きよる事を心しとかなければならない、その信心の雑草が取り除かれるところに、よい信心がいよいよ成長して来る訳であります、信心は話しを聞くだけが能ではないわが心からも練り出すがよい、と言う事はわが心で、ああでもなかろうか、こうでもなかろうか。
 練ると言う事もありましょうけれども、まず練り出させて頂くものを今日は私は時間とお供えの事を申しました、それを一つ土台にしてしかも私どもが絶えず、初心を忘れずにいよいよその信心を本当なものに育てて行かねばいけん、桜の花の信心より梅の花の信心をせよとおうせられる、こう言う時に私共が桜の花の信心、ぱぁっとした信心だけに酔うておりますと、中々信心がそれこそぱぁっと散ってしまう様な事になります。
 梅の花の信心をさせて頂いて、しっかりねばり強い本当に自分で参りよるとじゃないなあ、参らされよるとじゃなあ、自分がお供えが出来よると思いよるけど、自分がお供えしよるとじゃないなあ、お供えさせて頂きよると思うたら、それが分かったら本当に有難いなあ、勿体ないなあと言う心がある、その心が私は初心に通ずると思う、その有難いなあ、勿体ないなあが、段々欠けて来ると、いわゆる人間がぞんざいになって来る、私自身それを体験させて貰った。
 そして大坪さんの時代を思わせて頂いたら、心が晴れ晴れしうなっただけではない、問題がその場で解決する、おかげになって来る、信心の共励と言う事を皆さんが申します、また共励をなさいます、そう言う意味ではなくてね、今日の場合私の体験を通して、今日の言わば四十一節と言う事、から四十一と言う事はいつも一に帰ると言う意味で、今日はこの御理解から感じとらせて頂いた。
 いつも一年生、いつも初心の事を忘れずに、そこから生き生きとした楽しい信心が出来てくる、自分の例えばもう合楽ではよかとこだと、もう幹部だと、と言う様なところに尊大さがひそんで来る、そしてそれが次ぎの信心の成長を阻む事になる、確かに雑草が育って行きよるけれども、雑草のために伸び縮んでしまう、そう言う事を今日私の体験を交えて聞いて頂きましたですね。 
   どうぞ。